悪人 - 85点 ◯

人は常に一定量の悪を心に引き受けなければいけない。

「悪」という漢字は「亜+心」から成り立っています。「亜」とはもともと竪穴式住居からできた象形文字らしく、やがて「二番目」とか「醜い」という意味がついたそうです。この由来から「悪人」という文字の意味を考えると「心が醜くなっている状態の人間」を指すと言えます。

これを踏まえて、この映画のキャッチコピーである「誰が本当の悪人なのか?」という問いを考えた場合、その答えは特定の誰かが悪人なのではなく、多少の差はあれ誰しもが時々悪人なってしまうということになります。心から永遠に悪を追いだすことはおそらくできません。しかし、永遠に悪であり続けることもありません。常に善と悪の間で揺れ動きながら、人は悪とどう付き合って生きていけばよいのか?この映画を観てそんなことを考えました。

「森羅万象の総量は一定」という考え方がありますが、であるならば悪も常に一定量存在することになります。これは観念的な話になりますが、悪の居場所は人の心にしかなく、もし誰もが善であろうと振る舞い、その悪の存在を認めずに吐きだし続ければ、誰かの心の中に澱みが生まれ、いづれ臨界点を迎える。

誰かの心にあった情念が、ロシアンルーレットのように心から心へと彷徨い、報われぬまま悪へと変異して、誰かの心で暴発する。この映画が描く殺人事件はその帰結であるように感じました。(だからといって社会的に裕一が免罪されることはありませんが)

自分の中にある悪(醜い心)を鎮めるのは心の理性だと思います。しかし、被害者の父親の台詞を敷衍すれば、孤独にあってはその機能(=理性)は正常に動作しないようです。光代の孤独も限界だった。だから光代はたとえ殺人者だとしても裕一を強烈に求めたのだと感じました。

エキゾーストノートを轟かせてGT-Rを一人飛ばす裕一。妹の部屋の乱れたベッドを見つめる光代。おとなしい性格とは裏腹の赤い服(しかも二人とも)。似合ってない金髪など。裕一と光代が歩んできた孤独な道程を想像させる描写。二人の出会いを希求する気持。自分の存在に気付いてほしいという願い。彷徨う孤独な魂を表現する李相日監督のアプローチは完璧でした。

そして最後の裕一の仰天行動ですが。これを愛と呼ばずになんと呼べば良いのでしょうか?「そういう美談にしたいわりには本気でやりすぎでは?」という指摘がありますが、いやはや、裕一からすれば光代が生き残れば最良。死はその次に良い(孤独な罪人にすることこそ最悪だ)からです。だから本気でやった。光代の中に生まれた自分への愛を殺した。この演出も完璧です。

それにしても最近は邦画が面白いですね。「告白」といい、この「悪人」といい、タイトルが漢字二文字の映画に駄作なし伝説の始まりでしょうか?(笑)

P.S.
満島ひかり、樹木希林、柄本明の演技については紙面の関係上割愛しました。モントリオールで最優秀主演女優賞を獲った深津絵里に負けず劣らず最高の演技でしたね。

「悪人」
公開:2010年9月11日
配給:東宝
監督:李相日
脚本:吉田修一、李相日
音楽:久石譲
出演:妻夫木聡、深津絵里、樹木希林、満島ひかる、岡田将生